野球の審判の悲しさ

昔から思っていたが野球の審判は悲しい。

 

野球の審判を職業に選ぶ人はどういう人だろうか?

 

野球が好きで、高校か大学あるいは社会人まで本格的に野球をやっていた人だろう。プロを夢みていた時期もきっとあっただろう。でもプロにはなれなかった。なぜプロになれなかったのか?体力や体格、パワー、スピードが足りない面もあっただろうが、一番足りなかったのは野球センスではなかったか?

 

例えば打球の判断について、打ったフライが野手に取られるか、野手にしたら取れるボールかどうか、間に落ちるか?ランナーは次の塁に走って間に合うかどうか、そういうことを瞬時に判断する能力。そういう野球センスがプロとプロになれなかった人に差があるのではないか。

 

野球は審判が判断する場面が非常に多いスポーツだ。ストライク・ボールは、ピッチャーの玉数だから1試合で120回くらいか。アウトは3x9で27回、セーフは15回くらいか。両チームだからそれらの2倍。1試合で300回を超える。それだけ多ければ1試合に何回か間違えても不思議ではない。

 

審判の誤審の問題は、過去から数限りなくある。テレビの前のファンは、プレーのあとでスロービデオで見るから、明らかに分かる。こんな明らかなことを間違えるとはなんてヘボな審判だと思う。当然だが審判はスローで見ていない。

 

しかし本当の問題は、プロの選手はちゃんと見えているのに、審判が見えていないということだ。角度で陰になってたまたま見えないことはあるが、そういうことではない。

 

篠塚の打球がライトのポール際で、ホームランかファールかで微妙なことがあった。審判はホームラン。スローで見るとファール。その判定で相当もめて、ポールの色がボールと同じ白から黄色に変わるきっかけになった。

 

そのとき、打たれたピッチャーはファールと判断していた。打った篠塚も打球は切れてファールだと判断していた。外野ポールから100m近く離れた場所にいたピッチャーとバッターは正しく見れていたのだ。しかし、審判はもっと近くにいたのに間違えている。これが打球の判断に関する、プロとプロになれなかった人の差なのではないだろうか?

 

外野フライを直接取ったかワンバウンドか微妙なとき、野手はいかにも取ったと演技することがある。しかし、選手たちはベンチからでもたいてい正しく分かっている。打った瞬間に取れる打球か取れない打球か正しく判断できているのだ。本来取れないはずの打球。最後にダイビングすればもしかして取れるかもしれないが、普通は取れない。というような判断。外野手の演技にもだまされない。しかし審判にはわからない。打球が上がっている間、取れるか取れないか取れるか取れないかと考えている。自信がないから、かんたんに演技にだまされてしまう。

 

選手に明らかに見えていることが審判には見えていない。審判の間違った判定でベンチの選手が全員ずっこける映像を何度も見たことがある。そういうときの選手の間のなんとなくしらけた空気。「しょせん素人だから仕方がない」というような。

 

ビデオ判定や機械判定を取り入れる方がいいのではないか。審判たちが権威が無くなる、失業するかもしれないと反対しているのかもしれないが、その方がスッキリする。間違った判定もビデオで見せられれば、後で覆しても監督も選手も納得するだろう。今の時代、テニスのサーブは早すぎて見えないので、人の目は最初からあきらめて、機械判定でも何の問題もないではないか。

 

選手にしてみれば正しく判定してくれれば、機械だろうが人間だろうがどちらでもいいことだ。審判には生活がかかった死活問題だが、すぐには全機械化はできないだろうから、相互補完的にやればいいのではないか。

 

また、野球の審判は選手から敬意を払われていない。だから暴言もはかれるし、時には手を上げられる。なぜか? 審判は結局プロになれなかった2流3流の野球人と思っているからだ。選手だけででなく審判自身もそう思っている。しかしそれは選手への教育で改善できるからそうした方がよい。高校野球の選手は審判の判定に文句をつけないし、サッカーの審判はもっと敬意を払われているように見える。行司の判定に怒る力士はいない。

 

あるいは元プロが審判をやってもいいのではないか?引退した選手が第二の人生で審判になることは悪いことではない。